創造の世界への背景2・・フロイト

フロイトは18歳(1873)、ウィーン大学で医学部に進み、医学だけではなく興味をそそられるままに幅広い分野に関心を示した。それもあって卒業まで3年も遅れている。その後半はE.ブリュッケ教授(生理学)を「自分の出会った最高の権威」とみなし心酔した。
ブリュッケ教授が引退、そして大学内の反ユダヤ主義に従って、フロイト26歳(1882)、生理学研究室を去ることになった。
大学を卒業したばかりの頃、家に遊びに来ていた少女マルタを、直ぐに見初め2ヵ月後にはプロポーズする気の早さであったが、経済問題もあって、ゴールインまで4年もの歳月が流れた。フロイトがマルタに書いた手紙は900通にも上るといわれているが、彼は嫉妬深く、仮想されたライバルだけではなく、マルタの家族に対してさえ二者択一を迫った文章がしばしばみられたという。
その後、ウィーン総合病院で臨床医となり神経病学に強い興味を示し、その臨床観察の正確さは周囲の者を瞠目させたといわれている。
後に、ヒステリー研究の共同研究者J.ブロイエルと知り合いになったが、貧困の底にあえいでいる家族のため、裕福な開業医である彼の援助を受けざる得なくなり、勤務医としてのフロイトの生活にも暗雲が立ち込めるようになった。
29歳(1885)の秋、当時の最高権威J.W.シャルコーの許、パリに留学した。神経病の研究のみならず、ヒステリー研究の対象として『催眠』『科学的方法論』『心理学的思考』が導入されていることをに深い感銘を受けたといわれる。この留学を期に、臨床的関心を『神経病』から『神経症』に移していった。
翌年、ウィーンに帰還すると、マルタとの結婚生活を可能にし、数年後には53年にも及ぶ開業医生活が始まったのである。
33歳(1889)、南仏のナンシー学派『(催眠暗示)』の研修に出かけたフロイトは、ここで「無意識的力」で動く心の部分があることを実感してウィーン戻った(『催眠後暗示』)。力動的な『無意識』の力を知ったフロイトは、経済援助を与えてくれていたブロイエルが1880年から82年にかけて治療したO.アンナ(本名:ベルタ・ハッペンハイム)の症例を思い出し、ブロイエルを訪ねた。その発見に感銘を受け2人の研究発表への共同作業が始まった。フロイトは新たに4症例を準備し、その中で『催眠』から『自由連想法』が開発され、「ヒステリー研究」(1895)ができあがったのである。ただ、ヒステリー発症の背後には性的なものがあるというフロイトの『ヒステリー性的外傷説』に、ブロイエルはどうしても同調できなかった。それらの経過があり、フロイトはブロイエルを敵対して、借金を頑固に返済した後ブロイエルと決別した。 参考文献 牛島定信精神分析入門」
その後、ようやっとフロイトの洞察力は自己分析の道へと進む・・・。
フロイトの印象はどうだろうか?この時から既に「神経症的」ではなかろうか。白黒選択しかできずグレーゾーンがない。単純に言えば、ものの見方の片寄った頑固者である。妄想的で無意識的な欲求に突き動かされているようでもある。しかし、救いになったのは彼の学問や本能の興味への追求能力と、成功体験からくる揺るぎない自信のようにさえ感じられる。しかし、貧困という現実とのギャップからの抑圧は彼の自我を歪めたと思われる。実は、フロイトがブロイエルと決別する前、ブロイエルはO.アンナと不倫関係にあった。ブロイエルの『ヒステリー性的外傷説』への反対が決別を招いているのだが、その背面では、フロイトは無意識下の強い超自我に支配されているようにさえ感じさせる。どうでもいい想像であるのだが、私個人的には、ここまでのフロイトの『T.A』はW型だと考察している。