個人主義・集団主義

日本人論の殆んどは、「欧米人は個人主義だが、日本人は集団主義」という主張を基礎にしている。「個人主義」とは、集団よりも個人を優先させる傾向で、「集団主義」とは、自分よりも集団を優先させる傾向をさしている。実際、心理学では、1980年代、集団主義個人主義について実証的な国際比較研究が盛んに行われるようになり、「日本人と欧米人の間に差はない」ということが示されている。
しかし、様々な言説があるが、「日本人には個性がない」「日本人は人と同じである事を好む」「日本人は互いにもたれあった集団としてしか行動がとれない」など、これらが欧米人とは逆である。こうした「集団主義」の日本人論への批判も登場しているが、現在でも世界では、「日本人=集団主義」説が支持されている。
日本人の集団主義的行動は、「文化」や「国民性」のような『内的特性』によって理解をしようとした結果、「日本人は集団主義」という言説が生まれたと考えられる。日本人が置かれていた歴史上的状況に対する人類に普遍的な反応として理解できる。
文化論や国民性論は、ステレオタイプや偏見に繋がる危険性を常にはらんでいる。そうした危険を回避するためには、強固な『対応バイパス(認知の歪み)』の『内的特性』に頼らず、『外的状況』での生態学的、歴史的、社会的、経済的状況などによって理解できないかどうかを考えてみる必要がある。 参考文献 高野陽太郎 認知心理学概論

しかしながら、私個人的な意見で言えば、様々な方向性から日本人を観察したところでもやはり「集団主義」の色が濃く、薄まる気配がないのが実際である。現実「個人主義」にも、それはそれの問題もはらんでいることから、「個人主義」「集団主義」のどちらがいいとか悪いとかではないのだろうが、私にとっては「日本人の集団主義的な行動」には、余りにも違和感があるのが事実である。『外的特性』に視点を向けた場合からも、その裏には、日本人特有の「甘え」「依存性」がはらんでいることと、個人個人を見ると自我不在のように思えるわけで・・。
つい最近、衝撃を受けたニュースでは、漫画家の楳図かずおの「まことちゃんハウス」訴訟で、赤白に塗った壁の撤去を求めた近隣住人の訴訟であった。当然!結果、住人側の訴えは棄却されたが、何しろ衝撃を受けたのは、その住人たちが揃いに揃って人権侵害的で、法に守られてるはずの個人の自由への侵略行為を、あたかもそれが正義のように訴訟を起こしたことである。その集団主義的行動は北朝鮮を思わせるのは私だけだろうか?正直「あんたら、己を北の将軍様と勘違いしてるんか!?」と身震いした。
もう一つは、あまり知られていないが、第二次世界大戦での「カウラ事件」をNHKでやっていたのだが、これも唖然とするものだった。内容は、オーストラリアの捕虜収容所の脱走事件としては史上最多の人数で、「捕虜になることは非国民」という、日本人軍独特の意識から、231名の日本人兵士が自ら撃たれるために脱走を図った話である。オーストラリア人は、そこまで個人の精神を捨て集団主義的行動を起こす事が、当時も現在も理解できないでいる。そこまではいい・・その後・・、それを研究してる日本の女子高校生が現地に行って、オーストラリアの高校生らとディスカッションしているのだが、日本の女子高校生たちは一生懸命に「私たち日本人は、今も昔も、なんでも皆と一緒じゃないとだめなの。それが日本人なの、なんで解ってもらえないのかなぁ・・」などと言っている事に、オーストラリアの高校生らは「あんぐり・・」。同時に私も「あんぐり」してしまったのである。
これまで、町中ルーズソックス、顔グロ、皆同じというのは散々見てきたし、違和感の中からも、その精神について検討してきたが、正直なところ、自我不在の方たちは、世界と接触してほしくないというのが持論である。