非指示的療法

「聴くこと」「耳を傾ける」「受け止める」というのは、カウンセリング場面では絶対条件であるが、人がなかなか「耳を傾けない」のは、話が簡単に収まらず、扱いの難しい事情が次々に現れてきてしまい、聴いているだけで時間はどんどん経過し、更に聴いている側も「重い気持ち」「しんどい気持ち」になってゆく。そんなことは避けたいと多くの人は知っているので、殆んど本能的にある程度のところで切り上げて、何らかの言葉で片付けてしまおうとする。
更に「異常な世界」「非日常の世界」など、いわゆる扱いの難しい事情になったら、いよいよ目を背け、耳をふさぎたくなるのはがむしろ「尋常」なことかもしれない。
しかし、クライエントの深層の奥深くにある存在が、誰にも聞いてもらえなかったばかりに意識できなかったものが、言葉、表現にすることで意識化される過程を、セラピストは分別を持った控えめな姿勢で付き添うことが重要になってくる。
『影(シャドー)』とは光に対しての影であり、人間や社会に光の世界をもつ傾向なだけに人間存在に課された問題である。光・意識を求めるがゆえに、同時に正面から影と向き合う課題に取り組まなければならない。セラピストはその影に渦巻くよどみをそのまま受け止め、付き添うことが心理カウンセリングの基本である。
フロイトは、セラピストの「どのようなものに対してであっても同等に向けられる漂うような注意のあり方」、そして河合隼雄1970は「セラピストの開かれた姿勢」また、セラピストの基本的な姿勢というものは「何もしないことだ」と表現している。「開かれた姿勢」でいる時、クライエントは安心して、自らもまだあまり口にしたことがないあたりの事柄について「語り」始めることになる。日本では身体レベルでのセラピストの反応、表現が大きな意味を持つものであることの重要性があると伴に、セラピストの「言葉の重み」によってクライエントの語る言葉も重みを持つ事ができる。それは、『守秘義務』ということを超えてセラピストの『器』が重要になってくる。
当然、臨床的視点での『見立て』例えばクライエントの「症状」「問題」「苦悩」について、精神医学の基礎知識は必須と言ってよい。それに伴い『見立て』をする上での絶対条件は、セラピスト自身の精神衛生というものが心理臨床においては、とりわけ意識的に取り組むテーマとなる。参考文献 大場登「心理カウンセリング序説2009」 河合隼雄「カウンセリング実際問題1970」「心理療法論考1986」
ここまでは『心理アセスメント』の過程であるが、「聴く」ということには、限界が伴う。扱いの難しい問題に対して、セラピスト自身の受け止める器があるか否かを意識的に自己理解しているか、転移、逆転移の可能性と、それが起こった時に最後まで対処していけるかなども含め、『アセスメント』の段階で『見立て』『契約』が必須になるわけだ。そして、そもそもセラピストの精神衛生がというのは、独断的に言えば「人の問題を扱うなら、まずは自分自身の問題を解決して腹に据えろ」ということだ。
集中しない「ぼーっ」とした態度でクライエントの言葉や態度、異変やぎこちなさなどを感じ、それを感じているセラピスト自身についても「ぼーっ」と眺め、アナリスト的に分析する。セラピスト自身についても眺めるとは、要はセラピストがどんなフィルターや色眼鏡で映しているかを知るためだ。また、ロージャーズの言うところの自己一致、個人的な部分は隠れ蓑に置きながらも開かれた姿勢を必要とする。
フロイトの「どのようなものに対してであっても同等に向けられる漂うような注意のあり方」、河合隼雄1970の「セラピストの開かれた姿勢」ロジャーズの『クライエント・センタード』、ユングの「無意識・プロセスに委ねる姿勢」は非指示的療法としての共通点があるが、実際は、非指示では成り立たない緊急性を帯びた問題も存在する。その場合については、次の機会に・・。