意思決定

『意思決定』について体系的な研究は、ゲーム理論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E7%90%86%E8%AB%96 から発達した『統計的意思決定論(合理的な意思決定のあるべき姿)』と『行動的意思決定論(意思決定に関わる人の認知や行動の現実)』という相互に関係しつつも発展の仕方が少し違う二つがある。
意思決定は、満足を味わうという風に、1.目標の設定 2.選択肢の生成 3.選択 4.そこまでの過程の評価、といった異なった局面から成り立っている。選択肢とは、例えば「今の恋人と結婚するか」「見合いで結婚するか」といったいくつかの異なる行為の可能性で、『代替案』『オプション』などとも呼ばれている。
意思決定と同じように認知的なプロセスである『判断』は、「この人と結婚すれば幸せになれるに違いない」というように、一般にはなんらかの根拠に基いて、ある主張の真偽を決めることを言う。その判断の結果として実際に行為は実行されることもあるけれど、そうでない場合もある。
また『問題解決』では正しい結果(解)が少なくとも後で振り返ってみると、客観的に明らかだが、意思決定は結果の望ましさが意思決定者の「価値観」に強く依存する点が特徴である。そして、多くの意思決定は、『無意識』に行われていると考えられる。また、選択自体を意識していても、いかに選択するかについては『無意識』である場合がある。
脳科学者の『ダマシオ』は、私たちが意識的に選択を行うときでも、それに先立ってある『身体的な状態(ソマティック・マーカー)』が生じ、特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果に私たちの注意を向けさせているという。そのためネガティブな結果に結びつきそうな選択肢は無意識に排除されるというわけである(damatio,1994)
選択における合理性とは何かについて、の基本的な原理は『優越性原理』である。決定者は他の選択肢に優越されていない選択肢を選び取るべきであるとする。現実にはこの原理によって都合よくただ1つの選択肢が選び取れる保証はなく、その他の選択原理も採用される。選択における合理性は意思決定者の『期待価値(確実性と価値の平均)』への信念を正しく反映するために、客観的データや統計が不足している場合、『主観的な価値(効用)』と『主観的な確立の評価(主観確立)を用いて『主観期待効用』を計算し、これを最大化して選ぶ『主観期待効用最大化の原理』のが合理的であるとされている。
世の中には、物質的な利益を第一と考える人もいるし、精神的な豊かさを求める人もいる。また、長期的に物事を考える人もいれば、直ぐに結果を出したい人もいる。異なった価値やさまざまな性質(属性)を持つ対象から選択の形に表す場合、これを決定事態の『多属性意思決定モデル』と呼ぶ。それらを総合的に判断したり、属性に優先順位をつけたりする場合は『多属性効用モデル』(小橋,1988;竹村,1996)と呼び、こうすることで、より合理的な選択ができるものと信じられている。
意識的な意思決定の出発点は「私は何を求めているのか」が分かっていることである。選択したあとでどんな達成感があるか、どんな気分になるか、その行為の値打ち(すなわち主観的な価値と効用)をあらかじめ推定できることである
意思決定の1つの意義は、理由はどうあれ選択がなされ、それ以上不決断の状態を続けなくてよいことである。1度決めたらしばらくは選び直さなくてよいという意味で安定した選択が望ましい。個人の場合は、その場の気分ではなくその人なりの価値観や現実認識から後悔のない意思決定を引き出すことで安定するはずである。 参考文献:認知心理学概論 高野陽太郎
私個人的には、これからの時代、文化や社会の価値、他者への依存的な受身で自らを合わせた意思決定では生き抜いていけないのではないかと考えている。更にグローバル化していく現代、様々な文化や価値観が反映されてきている中、日本社会も政治では自らの意思決定による造反、医療も本人への直接告知などと変化しつつある。個人、年齢差などにより選択自体の回避やリスクの回避などが見られるが、実際それらによっての後悔はそのこと自体が本人にマイナスを与える。結局のところ、自らの意思と現実認識がしっかり行われ、先々をシュミレーションした時の価値判断をするかしないかなのだろうが、それを行った場合でも失敗を免れる保障性は必ずしもあるわけではない。そこで重要なのは、その失敗を失敗ととるか、成功への切り札ととるかといった観念により人生の重みが違ってくるのだろうと私は考える。細く長い人生より、多くの意思決定を身をもって行い、例え短くとも太い人生を選択したいと考えている。

個人主義・集団主義

日本人論の殆んどは、「欧米人は個人主義だが、日本人は集団主義」という主張を基礎にしている。「個人主義」とは、集団よりも個人を優先させる傾向で、「集団主義」とは、自分よりも集団を優先させる傾向をさしている。実際、心理学では、1980年代、集団主義個人主義について実証的な国際比較研究が盛んに行われるようになり、「日本人と欧米人の間に差はない」ということが示されている。
しかし、様々な言説があるが、「日本人には個性がない」「日本人は人と同じである事を好む」「日本人は互いにもたれあった集団としてしか行動がとれない」など、これらが欧米人とは逆である。こうした「集団主義」の日本人論への批判も登場しているが、現在でも世界では、「日本人=集団主義」説が支持されている。
日本人の集団主義的行動は、「文化」や「国民性」のような『内的特性』によって理解をしようとした結果、「日本人は集団主義」という言説が生まれたと考えられる。日本人が置かれていた歴史上的状況に対する人類に普遍的な反応として理解できる。
文化論や国民性論は、ステレオタイプや偏見に繋がる危険性を常にはらんでいる。そうした危険を回避するためには、強固な『対応バイパス(認知の歪み)』の『内的特性』に頼らず、『外的状況』での生態学的、歴史的、社会的、経済的状況などによって理解できないかどうかを考えてみる必要がある。 参考文献 高野陽太郎 認知心理学概論

しかしながら、私個人的な意見で言えば、様々な方向性から日本人を観察したところでもやはり「集団主義」の色が濃く、薄まる気配がないのが実際である。現実「個人主義」にも、それはそれの問題もはらんでいることから、「個人主義」「集団主義」のどちらがいいとか悪いとかではないのだろうが、私にとっては「日本人の集団主義的な行動」には、余りにも違和感があるのが事実である。『外的特性』に視点を向けた場合からも、その裏には、日本人特有の「甘え」「依存性」がはらんでいることと、個人個人を見ると自我不在のように思えるわけで・・。
つい最近、衝撃を受けたニュースでは、漫画家の楳図かずおの「まことちゃんハウス」訴訟で、赤白に塗った壁の撤去を求めた近隣住人の訴訟であった。当然!結果、住人側の訴えは棄却されたが、何しろ衝撃を受けたのは、その住人たちが揃いに揃って人権侵害的で、法に守られてるはずの個人の自由への侵略行為を、あたかもそれが正義のように訴訟を起こしたことである。その集団主義的行動は北朝鮮を思わせるのは私だけだろうか?正直「あんたら、己を北の将軍様と勘違いしてるんか!?」と身震いした。
もう一つは、あまり知られていないが、第二次世界大戦での「カウラ事件」をNHKでやっていたのだが、これも唖然とするものだった。内容は、オーストラリアの捕虜収容所の脱走事件としては史上最多の人数で、「捕虜になることは非国民」という、日本人軍独特の意識から、231名の日本人兵士が自ら撃たれるために脱走を図った話である。オーストラリア人は、そこまで個人の精神を捨て集団主義的行動を起こす事が、当時も現在も理解できないでいる。そこまではいい・・その後・・、それを研究してる日本の女子高校生が現地に行って、オーストラリアの高校生らとディスカッションしているのだが、日本の女子高校生たちは一生懸命に「私たち日本人は、今も昔も、なんでも皆と一緒じゃないとだめなの。それが日本人なの、なんで解ってもらえないのかなぁ・・」などと言っている事に、オーストラリアの高校生らは「あんぐり・・」。同時に私も「あんぐり」してしまったのである。
これまで、町中ルーズソックス、顔グロ、皆同じというのは散々見てきたし、違和感の中からも、その精神について検討してきたが、正直なところ、自我不在の方たちは、世界と接触してほしくないというのが持論である。

知能という論理的位置付け

『知能』とは、はっきりしない実態のない概念である。時代や社会の状況に応じてもっとも相応しい意味を表すような柔軟性に富んだ概念である。学校での勉強については、「頭が良い」というが、「知能が高い」とはあまり言わない。
『スタンバーグ(1981)』の調査によると、社会人では「実際的な問題解決」「言語的能力」「社会的有能さ」の3つが共通して知能の概念に含まれており、学力の構成要素とは一致してないことがわかる。特に注目すべきは、「社会的有能さ」が含まれていることである。社会的有能さとは、「他人をあるがままに受け容れる」「誤りを許す」「好奇心を示す」「公正な判断をする」「約束を守る」「他人の要求や望みに気づく」など、学力とは異なる内容から構成されている。また、『スタンバーグの3頭理論』では、知能が「分析的能力」「創造的能力」「実際的能力」の3つの部分からなると説明している。「分析的能力」は「メタ認知的要素」「課題遂行の要素」「知識獲得の要素」の『コンポーネント下位理論』からなるとされている。「創造的能力」は、新しい情報を扱う能力と情報処理を自動化する能力で、これらは、経験を基にした問題解決について表していて『経験の下位理論』と言われている。「実際的能力」は実用的知能、社会的知能などの、日常の実際問題に対応するためのものであり、個人の適応能力が関与する。その意味で『文脈の下位理論』と言われている。
知能の定義として、古くからあった概念として、①抽象的思考 ②環境適応能力 ③学習能力であった。次第に「新しい問題に適応していく能力」とする考え方へ移行し、実際の社会生活で必要な有能さも含めて捉えようとする動き、すなわち、「社会的な問題に適応的の対処する能力」と捉えるようになってきた。代表的な『ウェクスラー』の定義で、知能を「目的的に行動し、合理的に思考し、その環境を効果的に処理する個人の統合性・全体的な能力」と定義づけている。ウェクスラーの代表的な『知能検査』は『WPPS』『WISC』『WAIS』がある。
認知心理学』では人間の知的活動を情報処理する過程と見なす考え方で、知能の捉え方も、知的な情報をどのように処理していくかの過程に注目し、処理の速さや効率や的確さなどを指標にしていくようになってきたのである。
他には、ある特定の能力のみが優れていたり進歩していなかったりという状態を表すのに好都合な、『ガードナー(1989)』の『多重知能理論』があるが、これは教育関係者に広く受け容れられている。現在、日本教育や「日本心理検査協会」での心理検査目録には、53種の知能検査がリストアップされている。 参考文献 岸学教育心理学概論」
確かに能力の持ち味とは人様々なのだが、誰しも否応なしに社会人にはなることからも最低限(微妙な言い方だが)は社会への適応能力が欲しい。家庭や教育現場などで『知能(能力)』を育成するために、様々な方向性から能力を養うための環境を作ってもらいたいものだ。環境によっての「歪み」には多くのものがあるが、心理学的に言えば『認知心理学』的な『認知(認識)』、『ゲシュタルト』的な『受け止め方』、『ジョハリの窓』的な『自己理解』や自己の拡大(オープンスペース)、『ユング心理学』やフロイトの『構造論』的な無意識の意識化などを行う過程が意識にあるかないか、それよりまず個人がそれ自体を意識化できているかの問題のように思う。要するに、社会的不適応者は、その根本が意識化されてないということだ。何かに突き動かされて行動し、それが何なのか突き止めようともしない(意識化の失敗)。超自我エスに自我が潰された状態(自己不在)など様々である。
話を戻すと、得意・不得意が偏ってしまうような分野も確かにあっていいだろうと思う。それは、個人が自分を活かせることをすればいい。しかし、社会的適応分野に関しては、私個人的意見としては「バランス」だと考えている。もっと言えば「個性」を活かしつつ「歪んで(片寄って)ない」ことである。

創造の世界への背景2・・フロイト

フロイトは18歳(1873)、ウィーン大学で医学部に進み、医学だけではなく興味をそそられるままに幅広い分野に関心を示した。それもあって卒業まで3年も遅れている。その後半はE.ブリュッケ教授(生理学)を「自分の出会った最高の権威」とみなし心酔した。
ブリュッケ教授が引退、そして大学内の反ユダヤ主義に従って、フロイト26歳(1882)、生理学研究室を去ることになった。
大学を卒業したばかりの頃、家に遊びに来ていた少女マルタを、直ぐに見初め2ヵ月後にはプロポーズする気の早さであったが、経済問題もあって、ゴールインまで4年もの歳月が流れた。フロイトがマルタに書いた手紙は900通にも上るといわれているが、彼は嫉妬深く、仮想されたライバルだけではなく、マルタの家族に対してさえ二者択一を迫った文章がしばしばみられたという。
その後、ウィーン総合病院で臨床医となり神経病学に強い興味を示し、その臨床観察の正確さは周囲の者を瞠目させたといわれている。
後に、ヒステリー研究の共同研究者J.ブロイエルと知り合いになったが、貧困の底にあえいでいる家族のため、裕福な開業医である彼の援助を受けざる得なくなり、勤務医としてのフロイトの生活にも暗雲が立ち込めるようになった。
29歳(1885)の秋、当時の最高権威J.W.シャルコーの許、パリに留学した。神経病の研究のみならず、ヒステリー研究の対象として『催眠』『科学的方法論』『心理学的思考』が導入されていることをに深い感銘を受けたといわれる。この留学を期に、臨床的関心を『神経病』から『神経症』に移していった。
翌年、ウィーンに帰還すると、マルタとの結婚生活を可能にし、数年後には53年にも及ぶ開業医生活が始まったのである。
33歳(1889)、南仏のナンシー学派『(催眠暗示)』の研修に出かけたフロイトは、ここで「無意識的力」で動く心の部分があることを実感してウィーン戻った(『催眠後暗示』)。力動的な『無意識』の力を知ったフロイトは、経済援助を与えてくれていたブロイエルが1880年から82年にかけて治療したO.アンナ(本名:ベルタ・ハッペンハイム)の症例を思い出し、ブロイエルを訪ねた。その発見に感銘を受け2人の研究発表への共同作業が始まった。フロイトは新たに4症例を準備し、その中で『催眠』から『自由連想法』が開発され、「ヒステリー研究」(1895)ができあがったのである。ただ、ヒステリー発症の背後には性的なものがあるというフロイトの『ヒステリー性的外傷説』に、ブロイエルはどうしても同調できなかった。それらの経過があり、フロイトはブロイエルを敵対して、借金を頑固に返済した後ブロイエルと決別した。 参考文献 牛島定信精神分析入門」
その後、ようやっとフロイトの洞察力は自己分析の道へと進む・・・。
フロイトの印象はどうだろうか?この時から既に「神経症的」ではなかろうか。白黒選択しかできずグレーゾーンがない。単純に言えば、ものの見方の片寄った頑固者である。妄想的で無意識的な欲求に突き動かされているようでもある。しかし、救いになったのは彼の学問や本能の興味への追求能力と、成功体験からくる揺るぎない自信のようにさえ感じられる。しかし、貧困という現実とのギャップからの抑圧は彼の自我を歪めたと思われる。実は、フロイトがブロイエルと決別する前、ブロイエルはO.アンナと不倫関係にあった。ブロイエルの『ヒステリー性的外傷説』への反対が決別を招いているのだが、その背面では、フロイトは無意識下の強い超自我に支配されているようにさえ感じさせる。どうでもいい想像であるのだが、私個人的には、ここまでのフロイトの『T.A』はW型だと考察している。

境界性人格障害(BPD)

境界性人格障害(ボーダーライン)』患者は、ある種のパーソナリティ障害(個人の認知・情緒・行動の一貫した特性)を持っている。神経症の仮面をかぶり、しかし統合失調症でもなく両者の移行状態にいる。一見正常に見えるが、内面は空虚で、うつろい、変化しやすいといった病理をもつ人を指す。
O・カンバーグ(1967)は『自我心理学』を基礎としながらも『対象関係論』に大きく影響を受けた『ボーダーライン・パーソナリティ構造(BPO)』の概念と治療技法を発表した。その診断のためには『記述的分析』『構造論的分析』『力動的・発生論的分析』の3つが必要であるとした。
記述的分析とはパーソナリティの把握である。慢性的な不安が持続し、汎神経症と言われるような、恐怖・脅迫・心気などの神経症の症状に伴い、衝動的・妄想的・軽躁的な傾向や、嗜癖(アルコール・薬物・過食)、倒錯がみられることをいう。
構造的分析的とは『フロイト』の『構造論』の自我・エス超自我の構造と機能を分析するとともの、防衛機制のありかたを中心に検討していくものである。
『ボーダーライン』に特有の『原始的防衛機制』と呼ばれる未熟な防衛機制のあり方を吟味する。原始的防衛機制には『分裂』『投影性同一化』『原始的理想化(万能感)』『脱価値化』『否認』がある。
ボーダー患者は、相反する情緒や思考を心の中に保持できず、葛藤ができないため心から切り離し(分裂)、自分の中にはないと否認し、それだけでまだ不安がぬぐえない時は、「怒り・攻撃性」は外界の誰かに投影して、安全な場所から外界の「悪い自己」をコントロールしようとする。「すべて良い」または「すべて悪い」のような世界に生きている。「良い」と思えるとほれ込む(原始的理想化)、幻滅すると悪いと決め込む(脱価値化)。これは、自己に対しても同じで、過剰に卑下したかと思うと、(幼児的万能感)を抱いたりするのである。虐待や『ネグレクト(放置)』からなるとも言われている。
『マスターソン(1976)』よれば、特徴は「みすてられ抑うつ〈不安)」にあるとした。幼少期の母子関係の影響から、愛着を向けた他者に見捨てられると絶えず不安を抱いて、見捨てられないために、自殺脅しなど、なりふりかまわない努力をする。
また、『G・アドラー(1985)』によれば、基本病理は、生後18ヶ月に獲得する喚起能力の欠如ののため、安らぎを与える対象『自己対象』を喚起できないことから、外的な存在を絶えず必要とすると述べている。
ボーダー患者は抑うつ状態で助けを求めて受診することも多いが、専門家側では、ボーダー患者側の手に余る問題を『転移』と呼ばれる形で一時的に引き受ける必要が生じてくるが、治療者の心の安定が『逆転移』により大きく揺さぶられ、その関係は泥沼になることも多い。精神科との連携も必要となり、ボーダーのその概念から最も問題になる患者群なのである。 参考文献 守屋直樹「人格パーソナリティ障害への対応」 平島奈津子「精神分析入門」
ここでは、あえて『クライエント』ではなく患者という言葉にさせてもらった。専門書によって書き方はまちまちであるが、どちらかというと精神科の分野に近いと判断させてもらったからだ。
これからも、ボーダーを引き受ける技量はとても私にはないが、ここで心配になるのは、最初の厳しい『見立て』が必要になるということだ。初期段階の『心理アセスメント』において『妄想』や『幻覚』『幻聴』などの症状が伴うことが解れば正しい結論が出せるだろう。そう、それはボーダー以外にも言えることだが、精神科との連携や薬物投与が必要になる。しかし『神経症』や『抑うつ』などでボーダーが潜んでいる場合も考えられるため、『見立て』の段階では、慎重かつ冷静な『心理臨床的視点』が必要になると言える。
近年、増え続ける虐待や『ネグレクト(放置)』だが、それ自体が連鎖すると言われているが、そう考えると、問題の基からから絶たなければボーダーはこれから一層増えてくるとも言えるであろう。
その他の人格障害についてはまた。

非指示的療法

「聴くこと」「耳を傾ける」「受け止める」というのは、カウンセリング場面では絶対条件であるが、人がなかなか「耳を傾けない」のは、話が簡単に収まらず、扱いの難しい事情が次々に現れてきてしまい、聴いているだけで時間はどんどん経過し、更に聴いている側も「重い気持ち」「しんどい気持ち」になってゆく。そんなことは避けたいと多くの人は知っているので、殆んど本能的にある程度のところで切り上げて、何らかの言葉で片付けてしまおうとする。
更に「異常な世界」「非日常の世界」など、いわゆる扱いの難しい事情になったら、いよいよ目を背け、耳をふさぎたくなるのはがむしろ「尋常」なことかもしれない。
しかし、クライエントの深層の奥深くにある存在が、誰にも聞いてもらえなかったばかりに意識できなかったものが、言葉、表現にすることで意識化される過程を、セラピストは分別を持った控えめな姿勢で付き添うことが重要になってくる。
『影(シャドー)』とは光に対しての影であり、人間や社会に光の世界をもつ傾向なだけに人間存在に課された問題である。光・意識を求めるがゆえに、同時に正面から影と向き合う課題に取り組まなければならない。セラピストはその影に渦巻くよどみをそのまま受け止め、付き添うことが心理カウンセリングの基本である。
フロイトは、セラピストの「どのようなものに対してであっても同等に向けられる漂うような注意のあり方」、そして河合隼雄1970は「セラピストの開かれた姿勢」また、セラピストの基本的な姿勢というものは「何もしないことだ」と表現している。「開かれた姿勢」でいる時、クライエントは安心して、自らもまだあまり口にしたことがないあたりの事柄について「語り」始めることになる。日本では身体レベルでのセラピストの反応、表現が大きな意味を持つものであることの重要性があると伴に、セラピストの「言葉の重み」によってクライエントの語る言葉も重みを持つ事ができる。それは、『守秘義務』ということを超えてセラピストの『器』が重要になってくる。
当然、臨床的視点での『見立て』例えばクライエントの「症状」「問題」「苦悩」について、精神医学の基礎知識は必須と言ってよい。それに伴い『見立て』をする上での絶対条件は、セラピスト自身の精神衛生というものが心理臨床においては、とりわけ意識的に取り組むテーマとなる。参考文献 大場登「心理カウンセリング序説2009」 河合隼雄「カウンセリング実際問題1970」「心理療法論考1986」
ここまでは『心理アセスメント』の過程であるが、「聴く」ということには、限界が伴う。扱いの難しい問題に対して、セラピスト自身の受け止める器があるか否かを意識的に自己理解しているか、転移、逆転移の可能性と、それが起こった時に最後まで対処していけるかなども含め、『アセスメント』の段階で『見立て』『契約』が必須になるわけだ。そして、そもそもセラピストの精神衛生がというのは、独断的に言えば「人の問題を扱うなら、まずは自分自身の問題を解決して腹に据えろ」ということだ。
集中しない「ぼーっ」とした態度でクライエントの言葉や態度、異変やぎこちなさなどを感じ、それを感じているセラピスト自身についても「ぼーっ」と眺め、アナリスト的に分析する。セラピスト自身についても眺めるとは、要はセラピストがどんなフィルターや色眼鏡で映しているかを知るためだ。また、ロージャーズの言うところの自己一致、個人的な部分は隠れ蓑に置きながらも開かれた姿勢を必要とする。
フロイトの「どのようなものに対してであっても同等に向けられる漂うような注意のあり方」、河合隼雄1970の「セラピストの開かれた姿勢」ロジャーズの『クライエント・センタード』、ユングの「無意識・プロセスに委ねる姿勢」は非指示的療法としての共通点があるが、実際は、非指示では成り立たない緊急性を帯びた問題も存在する。その場合については、次の機会に・・。

第1回心理カウンセリング講習会

昨日、相棒のY氏と共に、日常生活で使える一般向けの「心理カウンセリング講習会」を開催した。まずは、Y氏とその他協力してくれた皆にお礼を言いたい。本当にありがとう。
心理テスト『エゴグラム』と『ソーシャルスタイル』、また、自分を押し殺すでもなく他者を批判するでもないクリエイティブなコミュニケーションについて考えた。内容は『アクティブリスニング』『Iメッセージ・Youメッセージ』『ダブルバインド』にそって考えていった。
講習に来られた方が徐々に自己開示してくる様子や、講座の内容と各自の人生との照合作業の様子、その中から「気づき」を得た瞬間の表情、それを漂わせるセリフは、なんとも言いようのない「やりがい」を私に実感させてくれた。
我々の活動は、自己成長のための促進、自立への支援、安定した精神への補助など、臨床的視点から援助することとは言え、やはり我々もそのような対象によって、自己成長させていただいているということだ。私自身も一つの地域のの一員として互いに影響を及ぼし、関わりながら共に生きていることを謙虚に受け止めなくてはならない。
結果から言えば、当日の講座自体は、まずまず成功したと言えるだろう。しかしながら、それはそれとして反省点はある。講習終了時に講習に来てくださった皆様からのアンケートの分析からでも、対象者やニーズについてもっと絞った「課題」作りの必要性があるとも感じた。また、広告や宣伝の出し方、時期、期間等も次からはもっと計画を立てて『コミュニティ・アプローチ』としての活動を展開していくつもりだ。
治療ではなく自己治癒の支援、健康的な人々へも予防的援助などの、人々が暮らしやすくなるような働きかけをやっていこうと思っている。