知能という論理的位置付け

『知能』とは、はっきりしない実態のない概念である。時代や社会の状況に応じてもっとも相応しい意味を表すような柔軟性に富んだ概念である。学校での勉強については、「頭が良い」というが、「知能が高い」とはあまり言わない。
『スタンバーグ(1981)』の調査によると、社会人では「実際的な問題解決」「言語的能力」「社会的有能さ」の3つが共通して知能の概念に含まれており、学力の構成要素とは一致してないことがわかる。特に注目すべきは、「社会的有能さ」が含まれていることである。社会的有能さとは、「他人をあるがままに受け容れる」「誤りを許す」「好奇心を示す」「公正な判断をする」「約束を守る」「他人の要求や望みに気づく」など、学力とは異なる内容から構成されている。また、『スタンバーグの3頭理論』では、知能が「分析的能力」「創造的能力」「実際的能力」の3つの部分からなると説明している。「分析的能力」は「メタ認知的要素」「課題遂行の要素」「知識獲得の要素」の『コンポーネント下位理論』からなるとされている。「創造的能力」は、新しい情報を扱う能力と情報処理を自動化する能力で、これらは、経験を基にした問題解決について表していて『経験の下位理論』と言われている。「実際的能力」は実用的知能、社会的知能などの、日常の実際問題に対応するためのものであり、個人の適応能力が関与する。その意味で『文脈の下位理論』と言われている。
知能の定義として、古くからあった概念として、①抽象的思考 ②環境適応能力 ③学習能力であった。次第に「新しい問題に適応していく能力」とする考え方へ移行し、実際の社会生活で必要な有能さも含めて捉えようとする動き、すなわち、「社会的な問題に適応的の対処する能力」と捉えるようになってきた。代表的な『ウェクスラー』の定義で、知能を「目的的に行動し、合理的に思考し、その環境を効果的に処理する個人の統合性・全体的な能力」と定義づけている。ウェクスラーの代表的な『知能検査』は『WPPS』『WISC』『WAIS』がある。
認知心理学』では人間の知的活動を情報処理する過程と見なす考え方で、知能の捉え方も、知的な情報をどのように処理していくかの過程に注目し、処理の速さや効率や的確さなどを指標にしていくようになってきたのである。
他には、ある特定の能力のみが優れていたり進歩していなかったりという状態を表すのに好都合な、『ガードナー(1989)』の『多重知能理論』があるが、これは教育関係者に広く受け容れられている。現在、日本教育や「日本心理検査協会」での心理検査目録には、53種の知能検査がリストアップされている。 参考文献 岸学教育心理学概論」
確かに能力の持ち味とは人様々なのだが、誰しも否応なしに社会人にはなることからも最低限(微妙な言い方だが)は社会への適応能力が欲しい。家庭や教育現場などで『知能(能力)』を育成するために、様々な方向性から能力を養うための環境を作ってもらいたいものだ。環境によっての「歪み」には多くのものがあるが、心理学的に言えば『認知心理学』的な『認知(認識)』、『ゲシュタルト』的な『受け止め方』、『ジョハリの窓』的な『自己理解』や自己の拡大(オープンスペース)、『ユング心理学』やフロイトの『構造論』的な無意識の意識化などを行う過程が意識にあるかないか、それよりまず個人がそれ自体を意識化できているかの問題のように思う。要するに、社会的不適応者は、その根本が意識化されてないということだ。何かに突き動かされて行動し、それが何なのか突き止めようともしない(意識化の失敗)。超自我エスに自我が潰された状態(自己不在)など様々である。
話を戻すと、得意・不得意が偏ってしまうような分野も確かにあっていいだろうと思う。それは、個人が自分を活かせることをすればいい。しかし、社会的適応分野に関しては、私個人的意見としては「バランス」だと考えている。もっと言えば「個性」を活かしつつ「歪んで(片寄って)ない」ことである。