心理学の定義と態度

現代心理学が、ドイツのライプヒッチ大学のW. ヴントによって歴史を刻み始めてから130 年を経た今日だが、心理学を構成している領域は、もっと多岐にわたっている。収集つかないようだが、『行動とその基礎にある心を既述し説明しようとしている』という点で一つの学問である。
心理学の学問的定義では、心理学者は深く広汎に考える人でなければならないとある。つまり、科学者、哲学者、文学者、人類学者、あるいは歴史家のように、そして親や教師のように考える事が求められている。主観を排して、可能な限り客観的に知ろうとするとき、特定の方法論、つまり学問としての臨床的視点が採用されていなければならないという。私たちは色々知っているし、その中には正しいことも少なくない。だが、私たちはしばしば間違えも起こす。常識だけから私たちの行動や心的過程を知る事は限界があることを心理学は示唆している。
そして、科学的態度が必要とされている。心について理解したいと考える時に、まず必要になるのは、誤った信念や想像に惑わされないことだ。態度としての一つは、行き過ぎない『懐疑主義的態度』といわれている。それは、どういうことかと言うと、確信をもって信じるためには、まず疑ってみるということだ。もう一つは、『謙虚さ』。なぜなら、時には自分の意見を否定しなければならないことがあるからだといわれている。結局のところ、大事なのは自分の意見ではなく、私たちの問いに対して得られた事実であり、それが答えあるからこそ、自分が持っていなかった新しい視点を受け容れる柔軟性が必要であるという。参考文献 星薫「心理学入門2008」
ここから個人的な感想を言うならば、定義にも当てはまり、態度も伴う心理学者とは神様みたいなもんだなぁと尊敬の念を抱いてしまう。神・・からの連想で、ついこの間、「心理学がダメだったら、オカルト宗教に入ってやるっ」と言っていた、心理の恩師を思い出してしまった。なんか分かる気がするっ。
『科学的態度』だけでなくとも、学者もセラピストも根本的には同じようなことが求められているが、頭では分かっても実際となると難しいのが現実だ。絶対的なのが臨床的視点と自我の確保と自己開示。そして無になるのとは違う意味で主観を排して相手を見る。(もし無になれと言われたらもっと難しいけど・・)そして同時に、その時の自我をも客観的にぼんやり見る。これは、常に自分自身がどんなフィルターを通して物事を見ているかを常に確認する必要があることからだ(オープンスペースを広げるためでもあるし、開示できる自己を増やす意味でもあるのかなぁ)。まぁ・・などと言われても、どっちかが出来てもどっちかが疎かになる様に、現実には結構難しかったのを最近の業務経験で痛感した。要するに頭で分かっていても、なかなか出来るものではなく、日々の習慣の積み重ねということだろう。その辺りについては、フロイトやロジャーズ、河合隼雄先生を参考に、またじっくり考えてみることとしよう。